ラッカは1641年オランダの手に落ちる。その後ジョホール王国は、イギリスがこの地に姿を表わす18世紀未まで、スマトラのアチェやミナンカバウ、あるいはセレベス出身のブギスといった周辺の勢力との勢力争いに明け暮れることとなる。 (3)イギリス支配と中国人・インド人の流入 18世紀における茶を中心としたイギリスと中国の貿易の飛躍的な増大は、イギリス東インド会社にインドから中国へ向かう間の良好な寄港地を必要とさせた。かかる背景の下、1786年にフランシス・ライトがペナンをクダーのスルタンより、1819年にスタンフォード・ラフッルズがシンガポールをジョホールより手にいれ、さらに1824年には、英蘭条約によって、マラッカをオランダより譲り受けると同時に、マレー半島をイギリスの勢力圏、スマトラ及びジャワをオランダの勢力圏とすることを確認しあった。ここに、イギリスの海峡植民地は完成し、また将来、東南アジアのマレー社会をマレーシアとインドネシアという二つの国民国家に分ける基礎ができ上がったのである。 上記3つの地域からなる海峡植民地を直接の支配下に置いた以外に、当初、イギリスはマレー半島諸王国に対し、不干渉政策をとっていたとされる。しかし、ペラのスルタンの継承をめぐる内戦の調停を契機に、1875年にパンコール条約を結び、同国に駐在官を置き、行政の実権を握ることに成功したイギリスは、同様の手法でスランゴール、ヌグリスンビラン、パハンの3王国に駐在官を設置し、1896年にこの4王国をマラヤ連合州として統括する。その後1914年までに、ペルリス、クダー、クランタン、トレンガヌ、ジョホールの各王国は、イギリスの被保護国となったものの(駐在官ではなく顧問官を置いた)、マラヤ連合には加わらず、マラヤ非連合州とよばれた。さらに、1841年にジェームズ・ブルックがサラワクの領有をブルナイ国王に認めさせ、東マレーシアもまたイギリスの響下に置かれるようになった。 イギリス植民地時代の19世紀後半には、錫とゴム産業が急激に発展し、その労働力を賄うために、中国とインドから大量に労働者が送り込まれた。中国人は錫の鉱山で、インド人はゴムのプランテーションで、それぞれ働いた。クアラルンプールやイポーといった大都市は錫産業の中心地として発展してきたもので、現在でもこれら都市の華人系住民の比率が非常に高いのは、かかる歴史的背景によるものである。 (4)日本の占領と独立 1941年12月8日、真珠湾攻撃より先立つこと2時間前、マレー半島東海岸のタイ領シンゴラ、パタニ、クランタン領コタバルに上陸した日本軍は、マレー半島を南下し、翌年の2月15日にはシンガポールを陥落させた。以後1945年8月の日本の降伏まで日本軍による占領状態となる。 日本軍撤退後の1946年1月、イギリスは戦後のマラヤの統治方法として「マラヤ連
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